伊達騒動:(寛文事件)と伽羅先代萩 



伊達騒動

伊達騒動とはどんなものだったのでしょう・・・ 
現在は、あまり知る人がいなくなりましたが、伊達騒動が有名になったのは、庶民の楽しみである、歌舞伎や浄瑠璃でした。

タイトルは様々ありましたが伽羅先代萩となって定着したようです。

この歌舞伎などの演目と実際の事件について検証して見たいと思います。

しかし、この御家騒動を知ってる人は、県民の何%いるでしょうか?

よほど伊達家関係の歴史が好きじゃないと知らないのかも知れませんね。

ご存知の方は「NHK大河ドラマ樅の木は残った」で事件のことを知った人もいることでしょう。

しかしながら、作家の見解や見方を変えると史実から掛け離れていく場合もあり、あくまでも芝居や小説として見ることが大事だと思います。

徳川時代の有名な三代御家騒動と言えば、黒田騒動(1633年黒田家、福岡藩50万石)・加賀騒動(1748年前田家、加賀藩120万石)とこの伊達騒動(1660年伊達家、仙台藩62万石)でしょう。

大藩での出来事は家臣や家来だけではなく町人や藩内の人々まで注目を浴びてしまうのは、当然のことだったでしょう。

特別注目されたのには、大老酒井雅楽頭(うたのかみ)屋敷での刃傷事件が大きく係わって来ます。
それは後程紹介したいと思います。

御家とは、江戸時代の大名家を指します。

普段は大名の御家の内幕など、庶民にとってはうかがい知ることもできないことですから大いに興味を持ったことは想像できます。

御家騒動は藩にとって不名誉なことであり、その関係資料は処分されることも多く、例え残っていても他見不許可の措置がとられるのが普通のようです。 
伊達家の場合も伊達の黒箱と呼ばれる関係書類がありますが決定的な内容は無いようです。この箱については下記に表示しています。
また、瑞鳳殿の資料室にも三代綱宗は「故ありて逼塞」だけ書いてあります。  (つまり、わけがあって隠居した)ということです。

事件の判決次第で、騒動の一切の責任を負わされ処分の他に、悪役に仕立て上げられるのが通例でしょう。

これが芝居になると脚色され、複雑かつ面白く筋書きが変わっていくのです。
架空の人物も加えられ、あたかも実在の人物であるかのように印象づけられていくのです。

伊達騒動をテーマにした歌舞伎はいろいろありますが、やはり代表的なものは、伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)と実録仙台萩のようです。
伽羅とは、香木であり、出陣する武士は兜の中に香を焚き込めたといいます。

つまり伽羅=忠義の武士となり 先代=仙台 萩=宮城(現在宮城の県花はミヤギノハギ)となるわけですね。

最初に劇化されたのは、廷享3年(1746)11月 江戸森田座で公演した「大鳥毛五十四郡」のようで、事件が始まった万治3年(1660)から86年目でした。

次いで安永7年(1778)7月 江戸中村座で「伊達競阿国劇場」(だてきそうおくにかぶき又は、だてくらべおくにかぶき)を上演し、これが土台にになり、浄瑠璃・操人形の伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)が出来あがり、天明5年(1785)正月結城座で初演された。

その他にも伊達騒動を取り扱った劇はこんなにありました。

  隅田川柳伊達絹(天明2年3月市村座)
  伊達染仕形講釈(天明2年8月中村座)
  姿伊達契情容儀(寛政元年9月市村座)
  大三浦伊達夜引(寛政11年2月中村座)
  姿花江戸伊達染(文化9年3月市村座)
  慙紅葉汗顔見世(文化13年7月河原崎座)
  帰曲輪花伊達染(文政6年3月中村座)
  万歳御国歌舞伎(文政10年3月市村座)
  当館扇伊達写絵(弘化3年3月中村座)
   明治から大正に掛けて河竹阿弥作の
  実録仙台萩(明治9年6月東京新富座)
   松居松葉の列女政岡(大正8年2月歌舞伎座)
  碧瑠璃園の伊達安芸尽忠録(大正9年10月市村座)
  (資料:斉藤荘次郎氏著「先代萩実録」付録二先代萩の話による)

現在の伽羅先代萩になるまでに、かなりの改作が行われているようです。

十幕あった話も、徐々に減り、名場面を中心に四幕物となり、舞台背景も奥州藤原を舞台にしたり、足利将軍の殿中となったり登場人物の名もかなり変化があるようです。
当時は実名を使用することが許されなかったからですね。


それでは、一般的に知られている、伊達騒動について紹介したいと思います。

その後に、背景や歌舞伎としての伊達騒動、そして史実を検証して行きたいと思います。

仙台藩六十万石と表記することもありますが、茨城県と滋賀県に合計二万石の飛び地があります。合わせて六十二万石になります。

                      伊達騒動とは・・・・(俗説)

仙台藩主伊達政宗公(六十二万石)を二代目忠宗公が受け継ぎます。
しかし、三代目綱宗公が19歳で後を継ぎその2年後に事件は起こります。

時は寛文元年(1660)秋・・・  
藩主三代目綱宗公が幕命により、万治三年、江戸小石川のお堀工事の命を受けます。
工事は何事も無く日々進んでおりました。
ところが、悪臣達により遊郭吉原への執拗ような誘いに負け、吉原に案内されたのです。
初めは遊びのつもりでおりました綱宗公も、二度三度と足を運ぶようになり、当時 江戸吉原の名妓といわれた
高尾太夫を見初めてしまうのです。

それからというもの綱宗公は、藩の政治を見ることもなく吉原へ毎日通い詰めるのです。
それを良い事に、悪臣達は幕府に実状を知らせたのです。
そこで政治を顧みなかったとの理由から幕府の怒りに触れて21歳の時に隠居を命ぜられてしまったのです。
国の政治をつかさどる権力を失った綱宗公は、江戸品川の別邸に退かれたのです。

その時四代目綱村様(幼名・亀千代)はわずか二歳でした。
二歳の若君に何ができましょう。 当然、後見役が必要でした。

この後見役に当たったのが政宗の末子にあたる伊達兵部宗勝と二代目忠宗の三男、当時の一関城主、田村右京亮です。
この二人は家老の原田甲斐と結託し伊達62万石を乗っ取ろうと目論んでいたのです。
乗っ取りを成就するには二歳とはいえ城主の亀千代が邪魔になります。
そしてその最後の手段として幼い亀千代を毒殺して伊達兵部の子、東市正(いちのかみ)を城主にしようと図ったのです。

このような危険な状態から若君を守る努力は並み大抵ではなく、
母である三沢初子様(芝居では乳母正岡となっております)を初め涌谷城主、伊達安芸ら忠臣達は大変なものでした。

奥から出されるお膳やお菓子には毒が入っているかも知れないからです。
それ故、亀千代君の召し上がる物は、すべて母である三沢初子様が調理なさったそうです。
ご飯は茶釜で炊き、おかずと言えば塩と味噌という粗食を取られていたのです。
このような食べ物にもかかわらず亀千代の身辺も気付かわれ、月日は流れ約13年が経ちました。

寛文11年3月27日(酒井雅楽頭屋敷の取調)

時の大老、酒井雅楽頭忠清の屋敷においての裁きによって、御家は無事安泰となったものです。

悪の中心人物と云われた原田甲斐は酒井邸においてその悪政が暴かれた悔しさに伊達安芸に手向かって参りましたが、

その場において打ち首にされたのでございます。

(安芸57歳 原田甲斐53歳)

原田一族は、今の柴田町船岡に城を持っていましたが、この事件後一族は処刑にされております。

◎これが俗説(芝居)の概要です後程詳しく分析します。

伽羅先代萩

登場人物

鶴 千 代=伊達亀千代(後の四代藩主綱村)

仁木弾正=原田甲斐

渡辺外記左衛門=伊達安芸

山名宗全=酒井忠清

細川勝元=板倉重矩

架空の人物=乳母政岡その子千松、荒獅子男之助、弾正の妹八汐

しかし、この対立する両者の中で、四代藩主鶴千代を守り、実の子千松を主君への忠義との教えで亡くし、
悲劇的な人物の政岡はこの劇の中では主人公と言っても過言ではないでしょう。
主君への忠義と親子の愛情の板ばさみで、涙を押えて忠義を貫徹する政岡の存在がこの劇の名場面であり、
長く続いた原因ではと思います。


この劇の中で「腹はすいてもひもじぅない」と言う、千松のセリフは、江戸中期の流行語になったようです。
現代なら流行語大賞を取ったことでしょう。

それでは、伽羅先代萩の第二幕(竹の間)のシーンから・・・・

幼君の鶴千代が乳母政岡の子千松を相手に遊んでいる。

そこへ仁木弾正の名代、妹の八汐と田村右京亮の妻沖の井が、近頃殿中で起こる怪事件について、
政岡を糾明(きゅうめい)するためあらわれ、八汐は鶴千代に食膳をすすめたり、女医小槇の針術をほどこしたりしようとするが、
政岡はこれを拒否する。

鶴千代の殺害と政岡を計略に陥れようとして失敗した八汐は、無念そうに沖の井とともに退場する。
  
第三幕は足利家奥御殿の場 (前にも述べたように、舞台は変えてあります)

悪人がはびこり、忠臣はしりぞけられた殿中で、政岡がただ一人鶴千代のを守護している。

毒殺の心配があるため、政岡が自ら飯を炊いて、子供の千松に毒味をさせて進める。

一粒の米にも事欠くこの頃では、飯炊(ままた)きの支度も容易ではない。

「腹がすいてもひもじぅない」の千松の名文句はここで登場してきます。

飯炊きの場面が終わると、管領山名持豊の奥方栄御前が沖の井と八汐を従え、見舞いに来る。

美しい菓子折を鶴千代にすすめると、千松はかけ寄って、その一つを食べ、残りを足蹴りする。

毒が廻って苦しむ千松を八汐が懐剣で咽喉を刺し、母(政岡)の前で殺害する。

無礼者千松の成敗は当然と、政岡は悲しみを押えて涙一つ落とさないのです。

栄御前は政岡が平然としているのは、千松と鶴千代を取替えておいたためと合点し、政岡も悪人の一味と認め、連判状を渡して帰る。

二人が帰った後で政岡は、吾子の死骸にとりすがり、「コレ千松、ようでかしゃった!でかしゃった!よなぁ~」と泣く。

政岡のモノローグ・・・

「思い廻らせば此の程から諷ふた唄に千松が、七ツ八ツから金山へ、一年たてども未だ見えぬ唄の中なる千松は、待つ甲斐あって父母に、顔をば見する事もあらう。

同じ名の付く千松の、そなたは百年待ったとて、千年万年待ったとて、何の便りがあらうぞいな~、

三千世界に子を持った、親の心は皆一つ、子の可愛さに毒なもの食うなといふて叱るのに、毒と見たなら試しみて、

死んでくれいといふような、胴欲非道な母親が、又と一人あるものかいな~」


ここで、俳優も観客も涙を流し、先代萩最高の見せ場なのです。

※この場面は、宮城県のバスガイドの名演技にて車内で話してくれるでしょう。 ほぼ観光地から仙台空港へ向く高速道路上が多いです。 しかし、伊達騒動を話してくれるガイドさんは、山形交通及び宮城交通出身のベテランガイドさんです。
中には話せない方もいますので強制しないように


政岡が悲観の涙にくれているとき、陰で聞いていた八汐が、政岡に斬りかかる。

政岡は懐剣で八汐の脇腹を刺し、千松の仇を討つ。

その時一匹の鼠があらわれ、紅隈(べにぐま)に反りを打った太刀、鉄扇を構え、足下に大鼠をふんで、荒獅子男之助が出現する。

男之助は悪人の讒言(ざんげん)で、君側からしりぞけられていたが、御殿の床下に潜んで鶴千代君を守護していたのである。
男之助が鉄扇で鼠を打つと、掛烟硝(かいえんしょう)の中から鼠色の着付けをした蒼白な仁木弾正が、巻物を口に咬えてせり上って来る。
ここで男之助と弾正の対決となり、又一つの大きな見せ場が現れる。

対決は引き分けに終わり、弾正は巻物を懐にして去る。

大詰の問注所対決では山名宗全の不公平な裁断と渡辺外記左衛門の苦心、細川勝元の出場と仁木弾正の服罪を描き、刃傷の場では愁眉を開いている外記左衛門に、前非を悔いて連判状を渡すと見せかけた弾正が、突然短刀で外記左衛門を刺す。

渡辺民部、山中鹿之助、笹野才蔵がかけつけて弾正をおさえ、深手を負った外記左衛門が弾正を倒す。
細川勝元が現れて外記左衛門の忠義を賞し、足利の御家は鶴千代が相続すること、本領は安堵されたことを告げ、外記左衛門は御家の安泰を知って瞑目する。


これが、芝居での大筋の流れです。 

               当時の寛文事件を題材にした歌舞伎の浮世絵があります。 これは「伽羅先代萩」の御殿の場

           

            床下の場

           


              
 
      容色仙代萩
               

政岡と振姫の墓所の記事はこちらです


 亀千代と生母三沢初子

伊達二十代の家督となった亀千代は、当年とって二歳であった。 前年、綱宗の養母振姫が死んだ翌月の三月に、江戸の浜屋式で生まれた。
初子の先祖は出雲三沢の住人で、のちに長門(山口県)に移り、祖母の代に近江に移った。父三沢権佐(ごんのすけ)清長は、大垣城主氏家志摩守広定の養子となったが、関ケ原の役ののち流浪し、慶安四年に江戸で死んだ。
十三歳で父母に死別した初子は、叔母紀伊に養われることになり、振姫の侍娘だった叔母を介して振姫に仕えた。
初子の容姿と聡明さをみた忠宗は、綱宗の側室にしようとしたが、紀伊は初子が名家の子孫であることを理由にこれを断り、正室ならば謹んでお受けすると答えた。 忠宗は承知し、明暦元年正月、綱宗と初子を結婚させたという。
しかし、忠宗がこれを正規の結婚として幕府に届け出なかったのは、やはり初子の素性が歴としたものでなかったこと、さらに綱宗が公式には未成年だったことによるものと思われる。そのような状態のまま家督を相続し、さらに隠居となった綱宗は、ついに正室を持たないままで終わったが、初子は事実上の正室として扱われたのである。

亀千代相続の万治三年(1660)に二十歳だった初子は、貞享三年(1686)四十八歳で死去し、振姫の菩提寺である仙台考勝寺に葬られた。
弟の三沢信濃宗直は、万治二年伊達家に召しかかえられ、のちに一門に列している。
歌舞伎『先代萩』の政岡、あるいは浅岡は、この三沢初子を脚色しtものだとの説があり、仙台孝勝寺の初子の墓は、俗に「政岡の墓」と呼ばれている。

  三沢邸があったところ、仙台市地下鉄東西線、大町西公園駅向、現在バイタルネット社屋
    

  

                      綱宗逼塞と母振姫 

そこには複雑な理由が絡んでいたようです。

万冶1年7月12日、二代忠宗が60歳で浙去。
9月3日に綱宗に相続が命ぜられ、三代藩主に就任。ところがその2年後万冶3年7月18日に幕府から逼塞を命ぜられ、品川屋敷に移り、正徳元年(1711)6月4日、71歳で没するまで藩の品川屋敷で隠居生活を送ったのです。

何故綱宗は二年で隠居になってしまったのでしょう。

これは伊達騒動を語る上で重要なポイントです。

それは、綱宗の身持不行跡説です。

まず綱宗には酒狂の癖があったと伝えられてます。

それには、こんな資料が残ってます。

二代忠宗に殉死した重臣、古内主膳重広は、遺言していた。

「今ニ至りテ、此末、心ニカカル事二ツアリ、当君御壮年ニ在シテ大ニ酒ヲ好ミタマフ、是一ツ、次に兵部殿(伊達兵部宗勝)
才智ニハ御家中ニ及ブ者ナシ、是ノミ心ガカリ」と残し伝えている。


その他の史料でも綱宗に酒狂の悪癖があったことは、明らかなようだ。

しかし、問題はこの悪癖だけに限らず、二代忠宗が亡くなった後に、綱宗を擁護しようとする勢力が藩内に居なかったことでしょう。

元々血筋にも藩内で孤立していた綱宗だったのです。
唯一、忠宗の死後頼りになるのは、母振姫の存在だけでした。
伊達家にとって振姫は徳川幕府と伊達氏とを結ぶ象徴的な存在であり、振り姫の威光は即徳川幕府の威光であり絶対だったのです。

そもそも綱宗の就任は振姫の御声がかりによって就任したものなのです。
ところが、後ろ盾になっていた振姫も翌年万冶2年2月5日江戸において53歳で浙去してしまいます。
(現在仙台の日蓮宗孝勝寺に葬られています)

振姫については、省略させていただきますが、簡単に言いますと、池田輝政の女振姫を二代将軍秀忠の養女として忠宗に嫁がせたのです。
つまり家康の孫という立場であります。

実は、家康が忠宗に嫁がせたかったのは、自分がもっとも寵愛した太田氏おかじの方所生の女子市姫をと決め手いたのですが、殤したため振姫に変更したわけです。

話は戻ります。
 
当時、綱宗は振姫の計らいで振姫の待女、三沢初子を側室に入れ、江戸浜屋敷で綱宗の第一子綱村を生みました。
時は万冶2年3月8日です。
確か、綱宗は正室を設けなかったので、実質三沢初子が正室見たいなものです。

綱宗は江戸へ参勤、小石川堀普請の大工事に従事することになります。
人足六千人を動員する程の藩を上げての大事業でありました。
しかし、綱宗の行跡について藩内に不審な声があり、特に振姫死後に重臣の間から堀工事開始以後は普請場出場を口実に盛り場に遊興することもしばしばという実情でした。

万冶3年6月、水戸中納言頼房、立花飛騨守忠茂らの親族方よりも意見を加え、老中酒井忠清よりも意見を加えたが綱宗の行跡は改まらず、7月9日に綱宗引退の願書が一門家老の連署で立花飛騨守・伊達兵部大輔宛に提出され、領内重臣総意の形で、7月18日、上使太田摂津守が来邸し綱宗に閉門逼塞が伝達された。

自業自得ではあるが、綱宗をこのような行動に走らせた原因は藩内における孤立無授の彼の立場も理解してあげなければならなかったのではないのだろうか。

しかし、忠宗亡き後、独立大名の地位を狙っていた伊達兵部宗勝があり、藩内は動乱が起きうる状態であったことは紛れも無い。

簡単に事件のまとめ・・・  

伊達兵部宗勝は大国に生まれながら嗣となれない立場を恨み、二代藩主忠宗が没すると謀議を企てる。
まず、奉行の原田甲斐と結託し三代綱宗を押さえ込み、幼君四代綱村を嗣に立てる。
伊達兵部宗勝は三万石の直参大名に取り立てられ、綱村を後見し国政を壟断した。
それだけではなく、長男宗興の嫁に大老酒井家の養女を迎えてからは謀議をあらわにして、伊達家を分割して自らが相続しようとした。
そのため訴えがあり、寛文十一年三月、酒井大老屋敷で関係者への尋問が行われた。
その席で宗勝派の原田甲斐が原告の伊達安芸らを斬るという前代未聞の大事件が起きる。
のちに張本人宗勝の罪状が暴露され、土佐に流される。 その時宗勝は51歳であった。 土佐山内家の保護を受けた宗勝だが快々(おうおう)として楽しまず。
延宝七年、気鬱症(ノイローゼ)から熱病を発症し、58歳で没した。

しかし、このまとめも絶対ではない、複雑な経緯がある。
                
もう少し詳しく事実を検証???


発端綱宗逼塞
万治三年(1660)七月十八日の七つ(午後四時)すぎ、江戸小石川の普請場から芝の浜屋敷(現新橋駅構内)に帰った仙台藩主伊達陸奥守綱宗は、上使太田摂津守資次及び立花飛騨守忠茂・伊達兵部少輔宗勝から、逼塞の幕命をつたえられた。
陸奥守はかねて病身であり、そのうえ不行跡で、家臣らの諫をも聞きいれないよし紛れが無いので、逼塞を命じる 。跡式(跡目)のことは、おって申し付けるであろう。ただし、小石川堀普請のことはすでに着手して進行中のことでもあるから、家臣を出して従来通り続けるように。

綱宗に対する幕命の伝達に先立って、この日、立花飛騨守・伊達兵部少輔宗勝および伊達家臣大条兵庫宗頼・片倉小十郎景長。茂庭周防定元(初め延元)・原田甲斐宗輔が、老中酒井雅楽頭忠清の邸に召集され、老中阿部豊後守忠秋・稲葉美濃守正則の列座のもとで、綱宗に対する上意を申しわたされた。 上意を受け賜わった飛騨守と兵部少輔は上使一名の派遣を願い、その結果太田摂津守が上使にたち、飛騨守と兵部がこれに同道することになったのである。

逼塞というのは、竹柵をかまえる閉門」とは違って単に門を閉ざして昼間の出入りを禁止する刑である。武士の閏刑のうちでは最も軽い。

記録
幕府の記録『徳川実紀』は、綱宗の逼塞にについて、伊達家臣からの綱宗隠居の願いと、これに対する上意の伝達と執行の過程、さらに上意のの主旨を、先に紹介した程度に記している。
これに反して伊達家の正史『治家記録』には、次のようにあるだけである。
「万治三年七月十八日辛未、公(綱宗)故アリテ御逼塞。太田摂津守資次殿、柳川侍従忠茂朝臣、伊達兵部大輔殿宗勝、御出、仰渡サル。


「綱宗の乱行」
綱宗の進退のことは、じつは伊達家臣たちから出願されたものであった。
万治三年七月九日付で、伊達弾正以下十四名の重臣たちが立花飛騨守及び伊達兵部あてに、綱宗の隠居を願う連署状を提出している。
   その際の綱宗隠居の理由は、もっぱら「病気」となっていた。
ところが、幕府からの逼塞の上意の理由は、「病気」よりも、むしろ「酒色にふけり、家士等の諫めをも聞入ざる」ことだけをあげている。『徳川実紀』などでは、「病気」のことは上意からまったく脱落している。

 これがその時の連署 

          

          

 右側から、伊達弾正宗敏  伊達式部宗倫(むねとも)  田村右京宗良  伊達安芸宗重  伊達和泉宗直 
 伊達安房宗実 石川大和宗広  奥山大学常辰  遠藤文七郎俊信  富塚内蔵丞重信  原田甲斐宗輔 
 茂庭周防定元 片倉小十郎景長  大条兵庫宗頼


伊達弾正から石川大和までは、伊達家中の最高の家各の一門。
奥山・茂庭・片倉・大条の四人は、仙台藩最高の要職、奉行(家老)。
遠藤・冨塚・原田は宿老である。宿老は代々奉行となる家柄で現職であるなしににかかわらず、公式の文書には奉行と共に連署するならわしであった。

 一旦、話を逸らすが、文学博士の大槻文彦は『伊達騒動実録』という二巻による大著を吉川弘文館から刊行している。
この書物は、「伊達騒動」についての「あらぬ事」を排除し、事実を究明しようとする歴史研究の立場にたち「伊達騒動」に関する最初の本格的研究となった。
『実録』は「伊達騒動」の真相を次のように要約している。 「世には、寛文仙台の悪政に付きては、ひとえに兵部少輔宗勝・原田甲斐を称すれど、其の実、奸魁は、渡辺金兵衛・今村善太夫にて、兵部、もとより驕横なれど、・・・・・。
第一の悪心として渡辺金兵衛・今村善太夫をあげる。
これについては後ほど記載します。

亀千代 家督相続
万治三年(1660)八月二十五日の朝、伊達兵部・立花飛騨守・太田摂津守および大条兵庫・片倉小十郎・茂庭周防・原田甲斐は老中酒井雅楽頭の邸に召集され、将軍補佐保科肥後守正之・老中阿部豊後守・稲葉美濃守、大目付兼松下総守の列座のもとに、雅楽頭から次のような申しわたしをうけた。
・・・・・・ このたび、一門・家老の輩の言上の趣を上聞に達し、陸奥守(綱宗)に隠居をおおせつけ、跡式のことは実子亀千代に下される。伊達兵部少輔の本知一万石に二万石をたし、田村右京を大名にとりたてて三万石とし、ともに亀千代の領分のうちからその知行を下される。両人で亀千代を後見せよ。

江戸では、綱宗逼塞下命の翌十九日の朝、綱宗の近臣、坂本八郎左衛門・渡辺九郎左衛門・畑与五右衛門・宮本又市の四人が斬殺された。
綱宗に不行跡をすすめたかどによる成敗である。
このことについて、『茂庭家記録』によると、「君(周防定元)、御計ヲ以テ、仰ラルト」 と述べている。
江戸詰奉行茂庭周防が、自分の計らいで成敗したというのである。 確かに上意のあった翌朝の処断が、国もととの連絡を待たずになされたことは明白である。が、それは江戸にいた兵部・右京・奉行大条兵庫・普請総奉行片倉小十郎・評定役原田甲斐らの諒承のもとにおこなわれたとみてよかろう。成敗のことは、その日のうちに幕府に届け出られた。

この処刑は、大槻文彦が述べたように、幕府に対する伊達家としての謝罪の行為であったとみられる。
 
 『茂庭家記録』には次のような記録が見られる。
・・・・・綱宗の逼塞に先立つころ、茂庭周防は幕府御側衆の久世大和守弘之(のち老中)のもとにひそかに呼ばれ家督の候補についてたずねられた。周防が亀千代を願う旨を答えると、広之は、そのように願い申し上げよ。
ただしこの内談の言葉は片倉小十郎には内密にせよ。と指示した。
これによって周防は、目付け役の里見十左衛門を仙台に派遣し、伊達安芸・伊達弾正江戸登を要請した。
伝えによると、広之が小十郎には内密にといったのは、酒井雅楽頭が伊達六十万石を三十万石を兵部、十五万石を立花台八(飛騨の守の子息)、残りを田村右京に分け、うち三万石を小十郎に分けて大名にとりたてる、という密計を立てていたためであるという。

これらを事実とすれば、綱宗隠居後の処置について、兵部・台八・右京らに三分する密計があり、また亀千代相続のことも一門重臣らの入札によってはじめて確定したことになる。

ところが、この年六月二十六日の伊達弾正あての書状には、次のように気されている。
------綱宗不行跡による伊達家の危急について、、立花飛騨守の邸に寄りあい、大条兵庫・片倉小十郎・茂庭周防を招集して内談したところ、綱宗を隠居させ、亀千代に相続を仰せつけられるように、と重臣が連判のうえ出願すべきだ、という意見が一致した。
このことは、すでに春(一~三月)のうちにもあなたからお話があったことでもあり、賛成していただけると思う。
綱宗の兄弟などを家督にたてることは、幕府としては許さぬ方針だから、ただいまは亀千代をたてるほかに、伊達家の身代を守るすべは考えられない。
奥山大学から連判のことが参るだろうから、どうか加判を願いたい。 この旨、右京・式部へもお伝えいただきたい。-------
末尾に「必々、火中々々」とかかれたこの密書は、しかし焼却されずに後世に伝わることになったわけであるが、その内容によれば、兵部および弾正らの間に、綱宗隠居・亀千代相続のことがすでにこの年の初め以来話題にのぼっていたこと、しかも亀千代以外のものを家督に立てるという意向が彼らにはなかったこと、したがって入札のこともありえなかったことが判明する。
そして兵部は、この書状の箇条で、「若し、このたび、無同(同意しない)の者は、伊達之御家へ逆心に候間、あい除くべきよう、飛騨殿と申し合わせ候」
とのべている。
 
 『実録』に収めるこの書状は、『実録』刊行の明治後期には、玉造郡岩出山町の上遠野秀宜氏の所蔵となっているが、弾正あてのこの文書は当然岩出山伊達家から上遠野氏の手に移ったものであり、推測される伝承経路から、偽文書とは考えられない。
また、このように、兵部に対する評価を有利にするような文書が、後世に偽造されるはずはない。大槻文彦もまた、この文書を疑ってはいない。

問題はむしろ、『奥山大学覚書』と『茂庭家記録』にある。 大学の覚書は、すでに「騒動」が落着したのちの貞享二年(1685)に書かれたもので、奥山大学が自分に都合のよいように作為したものとみてよい。   事実、この覚書の部分には、綱宗隠居願いに大学が加判しなかったと書いてあるが、それにもかかわらず、七月九日の連署状に大学が加判したことは、すでに確認した通りである。 上記写真には奥山大学の名前がはっきりと見える。

詳しく書いていると長くなりますので割愛させていただきます。
奥山大学やり放題・・・
万治三年大学が江戸に上り、綱宗の不行跡は確かに本人の不覚悟にもよるが周防が悪事をすすめたためでもある。
このような悪人とともに公用をつとめることはできない、と幼君亀千代ののもとで両後見人に訴えた。
周防の退任をせまった大学の弾劾によって周防は家老を罷免された。
仙台藩の初期には奉行は六人で、仙台詰二人、江戸詰二人、在郷休息二人という形で交換するのがたてまえであった。
茂庭周防失脚後、奉行は、奥山大学常辰・古内主膳重安・大条兵庫宗頼・柴田外記朝意・富塚内蔵丞重信の五人。
この年十二月に古内主膳が病死した。
翌寛文二年には大条兵庫宗頼が隠居し、かわってその子監物宗快が奉行となり、柴田外記と内蔵丞はまだ二年目で大学の威勢は決定てきになる。
前年の三月大学は三千石から六千石への加増を許されている。
大学のとった行動を見ると・・・・・・・・・・忠宗の世に死んだ今村三太夫の跡式について忠宗の命令をのちに書き換えて違った処置をした。    藩主の御霊屋の御用にさえたてぬ宮城郡愛子山の松を五百本も伐って自分の建築のあてた。
禁則をやぶって、饗応に贅沢をつくし、毎度乱酒乱舞した。 家老衆は賄賂を受けとらなかったが大学は何でも受け取るようになっていた。 仙台城中の鷹屋を自分の屋敷にたて、御鷹師衆を自分の屋敷に詰めさせ藩主御名代同様のふるまいをした。
他にも色々あるが割愛、悪代官ならぬ悪奉行である。

その後、一門および家臣らの訴えがだされ、国目付から老中に報告され、大学を罷免した。大学は「悪人」の名で呼ばれることになった。

原田甲斐

寛文三年(1663)原田甲斐宗輔と伊東新左エ門重義が奉行に就任した。
甲斐は宿老、在所は柴田郡船岡で知行高は寛文十年の侍帳では、4183石となっている。
新左衛門は着座。知行は桃生郡小野2670石である。
原田甲斐宗輔の家は宿老。 伊達家の始祖朝宗以来の譜代の臣と伝えられる。
甲斐宗輔の母(慶月院)津田である。  
津田の母は茂庭延元の娘となっているが、実は政宗と香の前の娘である。 この香ノ前は秀吉の側室であった。
香ノ前については 伊達政宗の資質と歴史の因果 に記載しています。

甲斐は三十歳で評定役に任じられ、万治二年・寛文元年のそれぞれ鹽竈神社の普請総奉行に、万治二年には忠宗廟所感仙殿の普請総奉行にあてられている。

寛文九年(1669)の頃、奉行古内志摩はこう言っている。
・・・・・・・甲斐は奥山大学ほどに荒いことはないが、ひいきが強く立身威勢を望む点では少しも違いが無い。
特に兵部様を非常に恐れており、また目付け役のいうことに対しては、筋の通らぬことでも同調する。・・・・・・・
しかし、甲斐の反対党である志摩の言葉もまた信じることはできないが、このような傾向が甲斐本人に全くなかったとは言い切れない。

いずれにせよ、甲斐は『千代萩』の仁木弾正のような悪人でないことは勿論であり、また山本周五郎が『樅ノ木』に記したような理想的な人物でもなかったことはまずうたがいが無いだろう。

悪臣
目付役渡辺金兵衛

兵部が目付役を過分にもちいることにあり、特に目付け役のなかでも渡辺金兵衛を近づけて重用していることにあったことは、かれの覚書を見れば明らかである。
渡辺金兵衛とは、なにものであろうか。
彼は、もと牢人であったが、綱宗の代に召しかかえられたという。
伊達譜代の臣には、渡辺という家はないから、かれが新規とりたての者であることは、確かである。
 寛文三年(1663)十一月、渡辺金兵衛義俊は今村善太夫安長・里見正兵衛盛勝と三人で、勤めかたの心得について起請文(きしょうもん)【神仏に誓った文書】を両後見に提出している。この月は、五歳になった亀千代が袴つけの式をあげた月で、この起請文はそれと関連して出されたものであるが、その中に「このたび仰せつけられた候三人」とあるのによれば、金兵衛らはそのころ目付け役となったものかと思われる。
また、金兵衛は刀の腕のもちぬしでであると思われる。
 目付け役三名が連署した起請文(寛文三年十一月)に次のようなことが書かれている。
 家中の悪事については、自分の親子兄弟は勿論、殿様の御親類集のことでも、遠慮なく報告する。・・・・・・・・・・
二代忠宗の代に置かれた目付けが、亀千代の代になって、にわかに大きな役割を演ずるようになる。

兵部と金兵衛との結びつき
兵部が目付役をてなづけるために、金兵衛を近づける。 金兵衛は出世のために兵部に近づく。
二人の結びつきが強まるのは、自然ななりゆきだった。

 金山本判役(かねもとほんばんやく)の一件で兵部と金兵衛は結びつきは強くなった。
金山本判役とは・・・・鉱山の採掘者に対する課約金ですが、政宗は秀吉か許されて以来、幕府に上納せずに自由にできる特権があった。  兵部の一関領内にある金山について奥山大学は帰属させずにおいた。
しかし、大学失脚後、金兵衛の尽力によって、兵部の収納に決定した。

三万石の後見役兵部と四百石の目付役渡辺金兵衛の関係によって仙台藩の政治が動かされるよいう傾向が現れた。

 寛文九年(1669)の頃古内志摩は言っている。
 甲斐は威勢が出てきたとはいえ、実は小姓頭のつよいのと合点してのことで、とても抑えにはならない。
人々は内々では奉行よりも渡辺金兵衛えお重く見ている。

 大槻文彦は「伊達騒動」における二悪党の第一として渡辺金兵衛、今村善太夫をあげた。
彼らが仙台藩の警察政治の展開の立役者だったことは、確かだろう。

  「桃遠境論集」
谷地紛争(寛文五年)1665年
この谷地争いが刃傷事件の大きな引き金となる。長文ですが外せない部分であるので抜粋して引用させていただきます。

 伊達安芸宗重の領内で遠田郡の東境にあたる小里村(涌谷町)と伊達式部宗倫の嶺する登米郡赤生津村との間に紛争がおきた。
紛争には式部方に属することで、ことは落着した。
後に安芸が述べたことは「自分の地行である遠田郡小里村の谷地について式部は郡奉行山崎平太左衛門を介して、それを登米郡赤生津村の谷地であり、したがって式部領だ、と申しかけてきた。
小里村が確かな証文など持ってはいたが亀千代様の幼少のおりでもあるので遠慮をして式部殿の勝手しだいに内々でことを済ませていた。 というのである。寛文五年のこの紛争はまずこのようなことでおさまったが、その翌々年に起きた紛争はついに伊達安芸の幕府への提訴となり、「伊達騒動」を決定的な段階に追い込むことになる。

伊達安芸宗重

 伊達兵部、原田甲斐に対する「伊達騒動」での一方の旗頭と言われる。
伊達安芸の先祖は、鎌倉時代から戦国時代まで亘理郡を領した。
始祖は千葉介常胤(ちばのすけ)の三男武石胤盛で、かれは奥州征伐従軍の功で亘理・伊具・宇多の三郡を源頼朝から賜った。という
南北朝時代から氏を亘理に改めたといわれる。
したがって常胤の子孫である相馬家とも元来は同族であり、鎌倉時代には関東御家人として伊達氏とまったく同格だった。
その後伊達稙宗の子、元宗が亘理家の養子に入って、伊達氏への従属をつよめ、伊達一門に列して伊達氏と称する。
宗重の頃には、二万二千六百石を超えてその地行高は伊達家中最高であった。

   

   

    伊達安芸宗重公(涌谷神社)

  桃生・遠田の紛争
寛文七年(1667)の秋、桃生郡と遠田郡の境界の谷地について、式部と安芸の間の紛争がおきた。
桃生郡深谷の大久保村の西の田に続く谷地10町を、式部は藩士若生半左衛門という者に与えることにした。
そこで、桃生・遠田の郡奉行 山崎平太左衛門はかねての掟によって、この谷地開発が隣村の遠田郡二郷村の草、かや用水、などの支障にならないかどうかを安芸方に藩の代官を介してたずねさせた。

十一月、安芸から郡奉行にに返事があった。
「深谷分になっている旭山の西の谷地は元々みな遠田分なのだ。
であるに、寛文十七年(1640)の検知の以前から深谷の百姓たちが入り込んで新田をおこしたが遠田の百姓たちは深くにしてこれを見逃し検地のおりにもそのことを申し上げなかったために、それらは深谷分の田として決定してしまった。
すでに検地で深谷分に編入された谷ついては、いまさら問題にするつもりはないが、その他の谷地分は互いに証拠によって、自分と式部との、両方の家来の相談で境を決めることにしたい。

翌寛文八年(1668)二月、式部はこの安芸の申し出を拒絶した。
谷地堺のことは郡奉行山崎平左衛門の判断で決定してもらいたい。    その後のやり取りの結果、三月末になって安芸は「藩の検使によって、はっきりした境をたてよう」という式部の主張に従う腹を決めた。
寛文八年四月、式部はこの問題を家老(奉行)に訴えでた。

柴田外記、原田甲斐、古内志摩の三奉行は、秋には幕府から国目付が下って来ることでもあるから、しばらくの間訴訟を遠慮されたい、とこれを慰留した。

翌年二月、国目付が江戸に帰ると、式部は再び訴えを起こし、次のような口上書を奉行に提出した。
「深谷と遠田の境は以前からたてられている。問題の谷地については寛永検地のちにも緒方清兵衛ら数人のものが、すべて深谷からの手続きで新田を拝領している。
遠田の百姓たちが、これに異議を唱えなかったのは元来この地が深谷分だったためなのである。
不覚、などと申すべきものではなかろう。
安芸は深谷の谷地はすべて遠田分だというが、それでは谷地に境を立てようがないではないか。
安芸は望みが多く、そのために間違った言い分が多いのだ。
自分が安芸の領地を横領して若生半左衛門に与えた。とあっては武士のつとめがならない。
この点は、きっと明確にしなければならぬので吟味してもらいたい。

式部と安芸は互いに主張をゆずらなかった。
兵部と右京は幕府申次(もうしつぎ)島田出雲守らに申しで、また立花雪(飛騨守)にも相談しついに内々で酒井雅楽頭忠清に伺いをたてた。
雅楽頭は寛文六年以来、大老となっていた。

その際、両後見の意向は式部の方が理が強いようだから三分の二を式部とし仙台への申し渡しはには「安芸は年かさだから堪忍するように」と伝える。というものであった。
 判定は次のように決まった。
 亀千代幼少のおりでもあり、また両人に甲乙があってもいかがであるから、正式の裁判は差し控え、双方ともに堪忍して、紛争の谷地、安芸は年かさでもあるから三分の一とし残りの三分の二を式部につける。
この旨をうけた評定役茂庭主水は寛文九年五月末江戸をたって仙台に下り、奉行柴田外記、古内志摩とともに、石川民部、伊藤弾正をたずね事情を報告した。

安芸はいったん拒否したが六月九日ついにこれを承認した。
「殿様御為の儀と仰せ下され候うえはとかくもうしあぐるに及ばず」
というのが安芸の論理である。
式部もまた裁定に承服した。
結果は雅楽頭にも告げられ一段落をみたのである。

実測の結果、谷地の総面積は1233町余、うち三分の一の411町を遠田、安芸方につけ、残り三分の二の822町を深谷、式部方につけることになった。
   後に編集された「桃遠境論集」の記事によれば、数字の計算とは違って実際の谷地わけでは、桃生深谷の百姓のいい分は、まちがったことでもとりあげ。 遠田の百姓のいい分は、証拠のあることまでおしかすめて境がたてられたという。
 大塚八九、小塚一七三、大小合わせて二六二の境塚が築かれて検使が仙台に帰ったのは八月半ばであった。
この過程で絵図が作成され、近村の肝煎たち及び安芸、式部の家来がこれに調印をした。
 安芸方の家来須田伊兵衛は、いったんこれを拒否したが、検使たちは無理やりに案紙(ひかえ)を伊兵衛の証文にしたてた。
その結果、安芸についた谷地は四~五分の一にすぎなかったという。


 このころ。伊達家の政情は・・・・・
寛文八年(1668)七月に、幕府旗本桑島孫六吉宗は後見田村右京にしめした書状には伊達家中の動静を報告していた。
「渡辺金兵衛に無二の一味原田甲斐、評定役津田玄蕃(甲斐の義弟)・・江戸番頭高泉長門(玄蕃の弟)、小姓頭大町権左衛門、江戸品川家老後藤孫兵衛、出入司鴇田次右衛門で、目付けでは早川淡路である。
ただ今立身しているものは、皆金兵衛・今村善太夫のひいきであり衰えた者は彼らと会わない人々である。
金兵衛ら悪人たちは言いふらしている。

右京様は仮病を使って亀千代様の御用をさけ自分の保身だけを考えている。 兵部様は老齢病身ながら、床(とこ)の上でも御用を聴き、亀千代様の為には一命を惜しまれない。” 
仙台で何かとごたごたがおきるのも悪人たちの仕業と思われる。
仙台人の心ばせが、まったく義理を失って、へつらいと邪悪ばかりになってしまったのは、ひとへえに兵部様が悪人どもを一味にされる不善によると思う。
万事仙台藩の政治は、まず目付衆と金兵衛が十分に内談をし、それを兵部様に示し合わせた上で奉行たちに談合して両後見に申し上げる。
兵部様はとっくに承知のことを右京様と一緒に初めて聞くようなふりをしている。
この頃は、万事が金兵衛・善太夫、二人の言う通りになっている。



伊達安芸、幕府に訴える
その訴訟とは
前年の谷地配分の不公平を藩に訴える。場合によっては幕府にも訴える決意を家中長谷川杢之丞(もくのじょう)らにうちあけ杢之丞らはその秘密を漏らさぬことを氏神愛宕権現に誓ったのです。
安芸は奉行柴田外記、原田甲斐、古内志摩に申し出た。
・・・・・・・去年八月、遠田郡二郷村の谷地分け処分の際に志賀右衛門・今村善太夫ら四人が検分の絵図に調印するよう安芸方の代官に申し付けた。その者は安芸の指図をうけてからにしたいと言ったのに右衛門らは無理に案文(ひかえ)によってその者から判形をさせてしまった。したがってあの判形は無効である。
この代官を切腹させようと思ったが証人が無くてはと押し込めてある。
殿様(綱基)が成長し、直接に政治を見られるようになったあかつきに、政宗様、忠宗様の黒印状 その他の証文を提出し四人の検使の谷地わけの不正を明らかにして、先祖代々から押領をしなかったことをぜひ申し晴らしたい覚悟なので絵図と土地配分証文に調印をさせなかったのである。
このことは去年申し出ようと思ったが幕府目付の下向があったので遠慮し、ただ今申し出るのである。
  これに対して、二月十三日、国詰めの奉行原田甲斐と古内志摩の連署で、次のような返事が安芸あてに出された。
 『お申しでの旨であるが委細はすでに去年両後見に申しあげて事が済んでいるのにそれをまた殿様ご成長の上で訴えなさるのでは、殿様の御為にも至ってよろしくないと存ずる。少々の不足はどうか堪忍されるべきだと考える、したがって御提出の覚書は両後見へ取りつがずお返しする』
 甲斐たちがこの返事を書いた日から三日前の二月四日、伊達式部宗倫が死んだ。
安芸がこの時点で問題にしたのは、検使たちの谷地配分実施の不公正にあった。
 「伊達騒動」の大詰めの年となった寛文十一年(1672)の二月ニ日、伊達安芸は持病に悩む五十七歳の老体をおして、涌谷を出発した。
 亘理蔵人、村田勘右衛門以下二百五十人を超える安芸の家来達がこれにしたがった。
それは、前年の暮、幕府申次衆から、二月下旬まで江戸に上着せよ、との召喚状が到着したからである。
 安芸の訴訟はついに幕府に聞き届けられることになったのである。
 出発前のこと、安芸は菩提寺である涌谷の同円寺(後の見竜寺)の住職石水に願って法名を与えられた。
「見竜院徳翁収沢居士」 まさに決死の覚悟であったことを見ることができる。


 刃傷
 安芸は、勝訴しても、この度のことでは、定めで自分は処罰されるだろうと覚悟していた。
 当時、後見伊達兵部・奉行原田甲斐・小姓頭渡辺金兵衛はそろって江戸にいた。
 伊達家中は彼らの手で固められ安芸の立場は苦しかった。
国元仙台では、安芸を支持する人々が少なくなかったことが知られる。
一月十日には、かつての独裁者奥山大学が、幕府仙台目付に領内政治の不正を訴えていた。
また、一月二十日、屋代五郎左衛門と木幡源七郎が早川八左衛門、飯淵三郎右衛門・大河原三郎右衛門をさそって連署の訴状を作り仙台領はずれの伊達郡桑折宿で幕府目付に提訴した。
兵部らに対する伊達家中の大きな不満があったことは確かである。
 兵部、甲斐、金兵衛の党と、これに対する隠岐(右京)、安芸、奉行柴田外記、出入司田村図書らの派との矛盾対立は、この時点で最大となる。
田村隠岐守(右京)の家老平田縫殿と原田茂兵衛の書状には、すでに一月頃に、将軍補佐、会津二十二万石の主、保科肥後守正之が「兵部の不行跡はかくれもないところで、三年前にも処分を仰せつけるべきところだったが、政宗の子息であるために許されたことがある。
この度の安芸の訴訟は陸奥守殿のためには良いことだ」と語ったことが記されている。

 「家蔵記」は、この神門後に内膳正が「安芸ほどの侍は世にあるまじ」と褒めたと記している。

三月七日 
板倉邸で内膳正、但馬守による。
柴田外記と原田甲斐に対する審が行われた。
外記と甲斐は別々に取り調べを受けたが甲斐の答えは外記とくいちがい答えに詰まることもあったという。

原田甲斐は義弟の若年寄津田玄蕃、小姓頭渡辺金兵衛、目付今村善太夫らと連判の覚書を作って十四日老中に提出されようにと申次衆に申しでたが、申次はこれを受けはしなかった。
甲斐はこれを直接内膳正に提出し、内膳正はいったん受け取ったが十九日になってこれを返した。
この日、板倉邸から戻った甲斐はきわめて不機嫌だったと安芸の書状にはみえている。

三月二十一日、奉行古内志摩が幕府の召喚を受けて国もとから江戸にのぼった。
三月二十二日、板倉邸で内膳正、但馬守による志摩に対する審問が行われた。
 志摩の答えもまた外記と同じであった。
二十三日、安芸が兵庫にあてた書状にも将軍補佐保科正之が兵部のことは、もう決まった。と話したことが記されている。
大老酒井雅楽頭屋敷の刀傷事件
寛文十一年(1671)三月二十七日
伊達安芸宗重及び柴田外記・原田甲斐・古内志摩の三家老、聞番(取り次ぎ役)蜂谷六左衛門可広(よしひろ)を案内として、召喚に従い四ツ半時(午前十一時)頃、板倉内膳正重矩(いたくらないぜんのしょう)屋敷に参候した。いよいよ最後の断の下る。
この日の朝早く、原田甲斐は、板倉家を訪ね、直々申し上げたいことがあると願い出たが、重矩は後刻、老中列席の場で聴取すべしと答え、面会しなかった。
甲斐としても、必死の場面であることが推測される(治家記録)

昼九ツ時、酒井雅楽頭から老中方が雅楽頭の屋敷に寄り合っているので、こちらに罷出(まかりで)るように使者があり、一同が大老酒井忠清の大手前屋敷に向かった。
その大書院には、大老酒井忠清、老中稲葉正則、久世広之、土屋但馬守数直、板倉内膳正重矩、仙台の申次町奉行島田守政、
作事奉行大井政直、大目付大岡佐渡守忠勝、目付宮崎助右衛門憑仲(よりなか)など、関係者が全員参集していた。

取調べは、伊達安芸、外記、甲斐、志摩の順に一人づつ呼び出され、さらに安芸、外記、志摩と二回目の尋問があった。
そうして、甲斐が退出し志摩が入れ代わって奥に入っていった後に、甲斐の刀傷事件が発生したのです。

その時、外記と甲斐は表座敷におり、安芸は障子をへだてて縁側に出ていた。
聞番の蜂屋六左衛門は一間を隔てて下の使者の間に控えていたという。
甲斐は奥から出てきた申次に対し、まだ申し上げたいことが残っているので、もう一度陳述させてほしいと懇情したが、
申次は「今日のお尋ねはこれで終了したので、又のことにせよ」と云い残し、奥に入った。

甲斐は「何となく立候て、安芸様前を通候ふりにて」(花井氏雑記)
抜き打ちに差していたニ尺ばかりの大脇差で、「おのれめ故と詞をかけ」(桃遠境論集、下)、安芸の頸元を斬り付けた。
安芸もとっさに三原正家の脇差を抜き、「がきめ!(仙台弁で子供を言う)と叫び、甲斐の股(もも)のあたりを切り払ったが、
急所を打たれたため、即座に落命した(花井氏雑記)。
甲斐はそのまま奥の方に進んで行ったが、外記は一大事と後から追いかけ、背後から甲斐の肩を斬った。
甲斐は元来覚悟して、さね帷子(かたびら)を着籠ていたので深手とならず、取って返して外記の額を斬った。
使者の間にいた蜂屋六左衛門は、太刀打ちの音を聞いてかけ付け、甲斐を後ろから斬りつけ、組み付いて脇腹を刺した。
甲斐はそこで力が尽きた。
この物音に酒井家の家臣達がかけ付け、甲斐を斬ったばかりでなく、混乱して外記や六左衛門をも斬りつけた。
六左衛門は粗忽するなと叫んだが、石田弥右衛門に斬られ、弥右衛門も手傷を負った。
外記も酒井家の家臣に斬られ重傷となったのだ。

甲斐の刀傷事件は、当時の大事件であるので、自分の主人の手柄話にしようと思うのが人の人情というもの、話は又聞きされてゆくうちに一太刀がニ太刀になり大袈裟になっていったようである。
この所伝を総合的に見ると、前記のような話になる。

資料によると、伊達安芸宗重の斬られるところは、涌谷の花井家雑記が詳しく、柴田外記の行動は外記の最後をみとった医師福井玄享の書状が状況を伝え、蜂屋六右衛門の動きについては、治家記録所引の蜂屋氏記が信用するに足りるようである。


            


 安芸の死体はこの日の夕方、家来の亘理蔵人、村田勘右衛門に引き取られ翌二十八日品川の東禅寺で火葬され四月七日涌谷に向けて二百人近い家来を従い江戸をたった。

外記の遺体は二十八日の明け方酒井邸をでた。 六十三歳だった外記は安芸より六歳年長で瀕死の深手をおいながら伊達家中の後事を気遣った。
二十八日付けの古内志摩の書状には「十死に一生をえた」と書かれていた。
 蜂屋六左衛門もその二十八日午後に五十八歳の生涯を終った。

 事件後甲斐の資料がほとんど失われてしまった。

雅楽頭が兵部(姻戚関係にある)及び甲斐を支持する側だった。
雅楽頭の近臣が記した「直泰夜話」という書物に、「さる三月二十七日、上屋敷において、仙台の家臣原田甲斐殿、傍輩の伊達安芸宗重を討ちけるとき」と甲斐だけに敬様を付していることを指摘している。
 
したがって山本周五郎氏が「樅ノ木」で重要なすじにしたてた雅楽頭と甲斐との緊張関係は実在しない。
つまり甲斐がまず雅楽頭の家来の手で斬られたのを、甲斐自らが自分の乱心刃傷にしたてかえたという。
「樅ノ木」の構想は事実として到底認めることが出来ない。


 甲斐の遺体は二十七日の夜、申次大井新右衛門の指示をうけた剣持新五左衛門に引き取られ、芝、増上寺のなかにある良源院に葬られた。
新五左衛門は、甲斐の四男五郎兵衛の養父である。
甲斐、五十三歳。その法名は剣樹宗光・・・・・・とつけられた。
しかし、罪人であるために戒名は過去帳に載せられず、碑も立てる人がいなかった。
のち、甲斐ゆかりの女性で仙台藩士 北氏の妻となった人を甲斐と合葬したという。 その女性の法名は霊松院円牕光大姉である。

両源院は伊達家の宿坊であったが、その西南の片隅に明治の中頃まで大きな樅ノ木があり、原田甲斐の墓のしるしの樅ノ木と伝えられていたという。
結末 
兵部は、先代綱宗の様子を十分に承知しながらのことで、ひとしお不届きである。よって松平土佐守へお預けとする。
田村隠岐守(右京)は、大岡佐渡守から申し渡しを受けた。 処分は閉門である。 病気であり万端は兵部にしたがったので大きな責任を問わない。
兵部の子、東市正(いちのかみ)は「兵部大輔の咎(とがめ)により、小笠原遠江守へ召し預けられる」
綱村:四月六日、陸奥守、綱基(綱村)は江戸城に登り、白書院で大老、老中列座、大目付出席のもとに、兵部、隠岐、東市守への申し渡しの覚書を渡さん、さらに次の申し渡しを受けた。
 「陸奥守は、元服もすみ、札日などに登城していることであるから、もはや後見を置く必要はない。
家老の者に諸事申し合わせ、家中の仕置きを申し付けよ。
もし差し支えることが起きたさいは、伊達遠江守と立花左近将監に相談せよ。
伊達六十万石の安泰の報は直ちに品川の綱宗と国元仙台に注進された。

四月三日、兵部の身柄は芝三田の下屋敷に送られ十五日松平土佐守の家来180人ほどに守られ江戸をたち五月六日土佐高知城下に着き十二月からは高知の北西郊外の屋敷に移された。 かつて三万石の大名だった兵部はは、いま扶持米500俵を給され七人の家来と配所の暮らしを送ることになった。それから八年後の延宝七年(1679)五十九歳で亡くなった。
兵部の子、東市正は小笠原遠江守忠雄に預けられ、間もなく豊前の小倉に送られ300俵の扶持米と六人の家来を許された。この時23歳、かれは五十四歳」でこの地で死んでいる。
渡辺金兵衛は、三月二十七日申次衆の内意によって江戸の仙台屋敷の親類牧野権兵衛と南部宗寿に預けられた。
今村善太夫は志賀右衛門ら谷地配分の検使とともに、四月一日伊達遠江守の麻布屋敷に移され(甲斐の義系津田玄蕃)(親類剣持新五衛門)及び谷地検使の親類は二日にまた、金兵衛の親類吉田甚兵衛ら三人は三日にそれぞれ浜屋敷にひきこもりを老中から命じられた。
十四日、玄蕃、新五左衛門甚兵衛らは仙台に下し逼塞。
八月二十七日、渡辺金兵衛は伊達宮内少輔に預けて伊予吉田に移し岩籠に入るはずになっていたが断食を続け九月二十六日江戸で餓死した。
今村善太夫とその同役の目付け横山弥次右衛門とは伊達遠江守に預けて伊予宇和島に移すという処分が伝達された。22年後元禄六年(1693)、ゆるされて仙台に帰った。
また、谷地配分の検使、志賀右衛門と浜田半兵衛(市部近衛)は家禄を没収して仙台に送られることになった。
原田一族の処罰

甲斐刃傷の三月二十七日、幕府申次衆と兵部、隠岐両後見は、仙台の大条監物(おおえだ)、片倉小十郎、茂庭主水、冨塚内蔵丞に書き送って、甲斐の子息四人をそれぞれ親類に預けるように命じた。
監物らは実行しようとしたが、甲斐の嫡子、帯刀(たてわき)ら四人は船岡にひきこもって出ようとしなかった。
四月五日、原田家の親類すじにあたる茂庭主水は四人に誓紙を送って船岡から退去を要求し、その処理が帯刀たちのこれからの首尾のよいことを願ってのものであることを伝えた。
甲斐の家来片倉隼人は、これを不服として、家に火をかけたが、帯刀はこれを断り七日処分に服してそれぞれの親類に預けられた。
しかし、六月五日、江戸から目付佐藤作右衛門が帯刀らの処罰のために仙台に下向した。

七日、処刑、帯刀ら四人ともに切腹である。 帯刀は二十五歳、仲次郎は二十三歳、喜平次二十二歳、五郎兵衛は二十一歳であった。
帯刀の子、采女(うねめ)五歳、伊織一歳も殺された。 
甲斐の母、茂庭氏慶月院は、伊達千代松に、
甲斐の妻、津田氏は伊達上野に、
帯刀の妻茂庭氏は兄の茂庭主水に、仲次郎の妻と娘は古内主膳にそれぞれ預けられた。
仲次郎の養父:飯坂出雲は逼塞、喜平次の養父:平渡清太夫、五郎兵衛の養父劍持新五左衛門は、閉門を申し付けられた。
言うまでもなく知行は没収である。
帯刀ら四人の遺体は仙台北山の満勝寺に葬られたいとの願いは、満勝寺が伊達家の始祖朝宗の菩提寺であるため、許されず、それは新寺小路の林光院の一穴にうずめられたという。
甲斐の母慶月隠は下を噛んで自殺を図ったが、歯がないために果たせず、七月二十九日伊達千代松邸で餓死した。74歳であった。
伊達家の始祖朝宗以来の譜代の臣であり、また宿老家として一族ともに栄えた原田家であったが、ここに滅亡した。

老中審問のの場となった酒井邸での狼藉は、江戸城中での狼藉に準ずるものであるが、これをいち早く甲斐悪逆、安芸忠臣の形でまとめ、しかも伊達家に咎めをかけないようにという、境雅楽頭の意図が河内守や五太夫のものいい現されているもおとみてよかろう。

のちに雅楽頭が失脚してその死後酒井家が百日の閉門を命じられた時、伊達綱村は100門の野砲を毎日一門ずつ酒井邸に贈って一日も閉門をさせなかったという。

つまり、武器を運ぶためには閉門中に開門できる定めがあったという。

甲斐の家来の一部は、名取郡植松村に移って新百姓となった。

延宝三年(1675)十七歳の伊達綱基は九月十九日江戸をたち二十七日三千四百八十四人のともを従えて仙台城に入った。
初めての入国である。

延宝五年(1677)の一月一日、綱基は名を綱村と改め、四月には江戸の浜屋敷で老中稲葉美濃守の娘、仙姫と結婚の式をあげた。
綱村19歳、仙姫13歳であった。
遊女高尾太夫 
綱宗の遊興の相手として、俗に三浦屋の高尾の名が上げられている。
高尾が綱宗を思って「君はいま駒かたあたりほととぎす」と一句を物したとか、後に綱宗の意にさからった高尾は、
釣るし斬りにされたとか・・・二人の関係については、いろいろ俗説が伝えられている。

高尾という遊女は、新吉原、京橋一丁目の妓楼三浦四郎左衛門の抱え遊女で、三浦屋が元吉原にいた頃から寛保年中
まで、百年にわたって高尾という遊女が存在します。
それは、何代にもわたって襲名されて名前なのです。
しかし万治年間の高尾は、同2年12月5日に没していたのです。
したがって綱宗が高尾に通ったという説は誤りとしなければなりません。

また諸家深秘録には、綱宗が湯女の勝山に通ったと伝え、執心してこれを買い取ったと述べている。
一説には、勝山と同じ頃の山本屋の遊女薫という者を相手に遊興したのではと推測されている。 
 参考文献:伊達治家記録の著者/平 重道先生の仙台藩の歴史 伊達騒動から
       紫桃正隆 著   「政宗をめぐる十人の女」 
       小林清治 著   「伊達騒動と原田甲斐」

 伊達家には、寛文事件に関する関係資料の書状が「伊達の黒箱」と云われる箱に収められている。

                

           
                 伊達の黒箱/寛文事件(伊達騒動)の資料
                      
                     伊達の黒箱についてはこちらをクリックして下さい。
                                    
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